言葉には力がある。
誰かの何気ない一言に勇気づけられることもあれば、何の気もない一言で深く傷ついたりもする。
我々は常日頃から人に向ける言葉を選ぶ必要があり、どんな言葉が喜ばれるのか、共感されるのか、効果的なのかという課題はいくつになっても付きまとうものだ。
だが、それは本当に「言葉」だけの問題なのだろうか。
私は、決してそうではないと考える。
言葉は、発言する人間によって大きく価値が変化するものだ。
例えば私が、「日本、終わったな」と発言する。
それを日本人のほぼ全員が聞いたところで、「あぁ、そう」程度に思うだろう。
しかし、もし全く同じことを日本の総理大臣が発言するとどうだろう。
まず、日本中は大パニックに陥る。その真意を探るためにマスコミは走り回り、あらゆる政治家のSNSが炎上、日本の株価も大暴落するかもしれない。
それはそうだろうと、例えのスケールが大きすぎて現実味がないかもしれないのでもう一つ。
例えば、学校の休み時間。ある人物が、ふと急にドッジボールがやりたくなったとする。
Aの場合 ある人物=クラスカースト低めの陰キャ 陰キャ「ねぇ、みんなでドッジボールしない?」
付け加えておくと陰キャは陰キャでもクラス中から嫌われているわけではない。ただ物静かで、いつも一人で読書をしているようなタイプの人間というだけだ。そんな人物が、急にドッジボールをやりたいと言い始めたら。
おそらく、ある程度の配慮をされつつやんわり断られるのが関の山ではないだろうか。
Bの場合 ある人物=クラスカースト上位の人気者 人気者「ねぇ、みんなでドッジボールしない?」
この光景を想像してみてほしい。この後の光景は簡単に浮かぶのではないだろうか。
「は?お前何言ってんの?小学生かよ(笑)」
「えー?マジでやりたいの?いや、いいけど(笑)」
「ドッジボールとか何年ぶりよ!?」
クラス中が口々に言い合い、ドッジボールが実現する空気になるのではないだろうか。
少なくともAの場合よりBの場合の方がドッジボールが実現する可能性が高いのは間違いないだろう。
同じタイミングで同じ発言をしたとしても結果に差が出てくるのは何故か。
人は無意識に、言葉そのものよりも発言した人物を重視しているからだ。
もちろん、クラスカースト上位にいるのも下位にいるのも、日頃からの言動によるものが大きいのは確かだし、それに伴いクラスでの発言力が変わるというのも至極当然のことではある。
しかし全く同じ言葉で全く違う結果が得られるのは事実だ。
※言いたいのは陰キャにドッジボールをする権利も発言権もないということではない。
もし陰キャがドッジボールを本当にしたいのであればすべきことはクラスメイト全員に言葉を投げかけることではない。発言権のある人気者一人を説得すればいいのだ。人気者一人を説得しさえすれば、Aの陰キャでもBの場合の結果を得られるからだ。陰キャには陰キャの立ち回り方というものがある。
言葉には力がある。それは発言する者が持つ力が大きい。
全く同じ言葉でも、「誰」が発言したかによってその価値は全く異なるものとなる。
「絶対に成功する口説き文句」「OKをもらいやすい告白の言葉」など幻想である。
それらはある程度の効果はあるのかもしれないが、言葉の価値を決定するのは受け取り手であり、受け取り手が価値を計るのに重要視するのはあなたとの関係性だ。
ならばどうすればいいのだとなってしまうかもしれないが、
つまるところ結局は、達成したい目的があり、手段として言葉を選ぶというのであれば、様々なことを踏まえてから実行しなくてはならない。
普段からの積み重ねで発言権を持っておくに越したことはないが、人には向き不向きというものがある。集団での発言権を獲得するのに向いていない人は、誰の口から発することで最も効果を発揮するのか、あるいはどんな状況を作り上げれば自分の発言が通るのか、一計を案じると自分の言葉が思うように効果を発揮するはずだ。
ドッジボール一つでこれだ。
本当に人生とはトライ&エラーの繰り返しである。
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