何故、勉強をしないといけないのか。
何故、学校に行かないといけないのか。
学校の勉強なんて、社会に出たらほとんど使わないのに、何故。
今日はそんな疑問に答えます。
ちなみにこの質問に、学校の先生は答えられません。
何故なら彼らは、小学校から中学校、中学校から高校、高校から大学へ行き、また学校に戻ってきた人たちだからです。学校から出たことがないため、多くの場合で良くも悪くも学校の外での生き方を知らないからです。
学生から見ると一番近いところにいる大人が先生で、先生というものを絶対的な物として勘違いしがちですが、それは勘違いです。もちろん、先生にも素晴らしいところはたくさんあります。先生は教育のプロフェッショナルです。ただ、彼らも一人の人間だということは忘れてはならない。彼らは常に公平というわけでもないし、公正でもない。人間であるからには好き嫌いがあるし、得て不得手がある。
私がこれから語るのは彼らが不得手な部分というだけだ。
何故、学校以外で使い道のない無駄な勉強をしないといけないのか。
膨大な時間を使い、センター試験ためだけに好きでもない勉強をする。
将来のために?そんな具体性のない理由ではモチベーションが上がるわけもない。
そんなことをするくらいなら友人とマックで、ミスドで、ファミレスでだらだらしている方がずっと有意義である。
わかる。私もそうだった。勉強の意味がわからなかった。テストで何の数値がわかるというのか。
結論から言おう。それは、日本が学歴社会だからだ。
一つ、話をしよう。
もし、「何でも簡単に覚えられる勉強法」を「東大出身の人間」が教えてくれる3分の動画の再生ボタンがここにあったら、あなたは押したいだろうか?
3分なら別に見てもてもいいかもしれない。最初の数秒くらい見て、面白そうなら見てみようか。
あなたの感想はそんなところだろう。嫌いな勉強が楽になるというのならそれに越したことはないのだから、3分程度ならば費やしても問題はないはずだ。
だがもし、「何でも簡単に覚えられる勉強法」を「高卒の人間」が教えてくれる3分の動画の再生ボタンがここにあったらどうだろうか。
あるいは、その二つの動画が同時に並んでおり、どちらも同じような内容であったらあなたはどちらの動画を見たいだろうか?
もう一つ聞いてみよう。
例えばあなたが会社の社長になったとする。
事業は順調で、一人だけ人員を募集することになった。新卒採用だ。
人事の人間が何人も面接と試験を繰り返し、ほぼ同水準の能力を持った人間が二人、候補に残った。
一人は東大出身で、もう一人はFランク大学出身の人間だ。
前述の通り、テスト結果や能力、人間性は似たり寄ったりである。
さて、あなたはどちらを採用したいだろうか?
恐らく、上記の二つの質問で東大卒ではない方を選ぶ人はほとんどいないのではないだろうか。
何故か?
答えは簡単だ。日本が学歴社会だからだ。そして、学歴社会の日本で生きているあなたもその影響を多分に受けているからだ。
建前を言ってしまうと、東大卒はある種のブランドと化している。東大を卒業したということは勉強を本当に頑張った証拠であり、すでに一つの実績であると言える。だから、東大卒は評価されて当然なのだ、と誰しも口を揃えるだろう。
だが、重要なのは建前ではなく、事実だ。東大卒が贔屓されるという事実だ。
学生の身分であるあなたが、東大生を評価するのは至極当然のことであると考えるかもしれない。彼らは学生が目指す先の日本の一つの頂点にいることは間違いないのだから。
だが、勘違いをしてはならない。その評価は、社会に出る前も、社会に出た後も付きまとう。
もしあなたが普通の大学を出て普通の会社に入ったとする。同期に、東大出身の人間がいたとする。
入社してしばらくが過ぎ、仕事に慣れてきたあなたは上司に商品開発の提案をする。
あなた「Aという商品は間違いなく売れます!ぜひ開発させてください!」
ちょうど次の企画を考えていた上司はあなたの提案を快く思うが、同時にあなたの同期(東大卒)からもからも同じような提案を受けていた。
東大卒「Bという商品は必ず売れます。ぜひ開発させてください」
しかし、商品開発を行えるのは予算的にもどちらか一方だけ。提案内容は、どちらも見込みがあるように思える。いや、もしかしたらAの方が少し優れているかもしれない。悩んだ上司は、自分の上司である部長に相談することにする。
「部長、今、新入社員から商品提案を受けているのですが、どちらも出来が良く悩んでおりまして」
「うん、今年の新入社員はやる気があって良いですね。ちなみに提案したのはどなたですか?」
「〇〇さんがAという商品を、□□さんがBという商品を提案しています」
ここで注意すべきなのは、あなたの直属の上司は、あなたの働きぶりも東大卒の働きぶりも間近で見ており、それぞれの能力値も把握している。だが、それ以上の上司、例えば課長や部長といった普段関わらない人間から見ればどうだろうか。
あまり関わらない上に、新入社員故に実績などはない。残る判断材料は何か。
部長「□□さんってあの東大出身の?あぁ、なら今回はBという商品にしてみましょう」
間違いなく、学歴という肩書は強く作用する。仮に、あなたの提案したAの方が商品として優れていたとしても、普通の大学卒の人間が提案した商品と、東大卒の人間が提案した商品、並べてしまえば、どちらを取ればリスクが少ないのか、考えが偏ってしまうのは仕方がないことだ。
それは、最初にした二つの質問であなた自身が証明しているのだから。
会社は結局、Bの商品を開発することにし、Bの商品はそこそこの成績を出すことになる。
部長「□□さん、なかなか見込みがあるようだ。次のプロジェクトも□□さんにやらせてみよう」
会社は決して公平ではない。利益を出すことが目標だからだ。
学校は皆が一斉に同じテストを受け、比較が容易なスコアを簡単に出せるが、会社は違う。
ともすればチャンスすらもらえない、奪われることが往々にしてある。
同じ新入社員であるならば、一度ある程度の実績を出した者と、まだ実績のない者では、重要な仕事を任せるとしたら普通は前者一択だ。彼は前にチャンスをもらえたのだから次は私の番である、と思っていたら大間違いなのだ。
見事にそこそこの商品を開発した東大卒の同期は次のプロジェクトも任され、あなたよりも先に昇進することになる。
たかが学歴。されど学歴で、将来の年収に差が開いていく。そんな未来が、日本では普通に存在する。ここまで露骨でわかりやすい例はないが、潜在的にそういう意識があるというのは決して否定できない。
昨今、就活の場面で、「学歴フィルター」などと耳にする機会が増えた。
これは、大手メーカーなどの有名企業が、大学のレベルによりそもそも面接を受けられる人、受けられない人に分けていることを指す言葉だ。
例えばFランク大学の人間が大手企業の説明会に参加しようとすると、サイト上ではすでに「説明会の人数が満員でエントリーできません」となるが、同じタイミングで別の偏差値の高い大学の人間が同じことをしようとすると、すんなりエントリーでき、説明会に参加できたりする。
これに憤慨する大学生が毎年、一定数いる。
考えて見てほしい。あなたは有名企業の人事部にいるとする。
有名企業だから、応募人数は膨大な数となり、数千枚にも及ぶ履歴書には目を通すだけでも何時間もかかる。にも関わらず採用可能人数は50名程度。
さて、あなたならどうする?
もちろん優秀な人材は欲しい。だが、数千枚の履歴書全て目を通すことなど時間がかかり過ぎて不可能だ。
ならば、そもそも最初から優秀な大学からのみ履歴書を受け取ればいい。
これは、至極当然の思考ではないだろうか。
そこに文句を言う筋合いはどこにもない。
そうなることを見越して良い大学を選ばなかった自分が悪いのであって、決して人事担当者が悪いわけではない。全てのチャンスは誰にでも平等に与えられるべきだという考えは甘すぎる。
そして、その時に後悔してももう遅い。適当な大学を選び、4年間を遊んで過ごした人間は相応の会社に入ることになる。大学卒ということで、高卒という肩書よりかは高い年収で雇ってもらえるが、それだけだ。
某有名企業に入りたいと思うのであれば有名な大学に入るべきだったし、早く昇進して収入を増やしたいならやはり有名な大学に入るべきだ。
何故、勉強をしなければならないのか。
それは、日本が学歴社会であり、社会に出てからしばらく使う肩書を得るためだ。
学歴があればその分チャンスが増え、選択肢が増え、年収が上がる可能性が高くなる。
起業をするなら別である。
副業をするなら別である。
そもそも年収の高い業界に行くなら別である。
実力主義の外資系に行くなら別である。
だが、普通に日本の企業に就職するつもりなのであれば、その可能性があるのであれば、学歴はあるに越したことはない。
以上が、先生が教えられない、親には聞きにくい、日本の社会構造の話である。
これを見てあなたがどういう決断をするのかは、あなたの自由である。
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