シュレーディンガーの猫世界

第一章 世界は不確かで出来ている

シュレーディンガーの猫という話を知っているだろうか。

ものすごく簡単に言うと、50%の確率で発生する毒ガス装置と猫を一時間、箱の中に入れる。
猫が死ぬ可能性は50%で、生きる可能性も50%だ。
この思考実験は、箱を開けるまでは猫が生きている状態と死んでいる状態、二つの状態が重なり合って存在しており、観測者が観測するまでは世界は決定されていない、という主張をするものだ。

詳しく言うなればこれは哲学や机上の空論ではなく、量子力学の一節に真面目に投石するために生み出された理論ではあるのだが、量子力学を真に突き詰めようとする人間がこのようなネットの辺境に転がっている超理論に対して何か思うはずもないので自由に述べさせていただく。日本は言論の自由がある程度認められているはずだ。誰かの暇の補完になればそれでいいのだ。まぁ動物愛護団体が顔を真っ赤にして怒るだろうこのような実験は現代において推奨しないとは言ってこう。

この理論の解釈法は様々だ。

①生きている、死んでいる、どちらの可能性もあるが、観測と共に結果が収束し、どちらか一方の結果になる。
②観測する前から当然答えは決定しており、観測によって答えがわかるだけである
③生きている、死んでいる、どちらの可能性も同時に存在しているために、観測をした瞬間に世界が分岐し、一方の世界では猫が死んでいる世界に、一方の世界では猫が生きている世界になる。

個人的には③の多世界解釈が興味深くはあるが、ここでは捨て置いておく。
私が着目したいのは、「世界は、観測者が観測するまで決定されていない」という部分だ。

そしてここからが私の唱えるシュレーディンガーの猫世界理論である。


これは世界が5分前に始まった説と密接に関わっている。


これを三行で言うと、この世界は5分前に、本や物語のように突然発生した可能性があり、記憶やそれに伴う事象や物象もあらかじめ設定通りに調整されて作られているので矛盾がなく、確認方法が皆無な故に決して誰にも否定できず、この現実に可能性として平然と存在する超理論のことである。

この超理論を頭に入れつつこの新たな超理論を考えてみてほしい。


例えば、あなたが今、扉の閉まった自分の部屋にいるとする。
おそらく、あなたはその部屋に自分で入ったはずだ。そして座って、寝転んで、立って、この文章を読んでいる。

で、世界が五分前に始まった説を用いて考えると、今、そこから一歩も動かずに、部屋のドアの向こう側がどうなっているか、証明することはできるだろうか?

記憶はしっかりあるから多分、ドアを開けた向こう側の光景は思い浮かぶし、説明はできるし、実際にドアを開けたその通りの光景が広がっていることでしょう。

ただ、それはドアを開けた後の話で、ドアが閉まっている今、例えば私が、「その扉の向こうはまだ真暗ですよ。世界は五分前に作ったばかりなので、まだ製作が策が追いついてないんです。だから、扉の向こうはまだ何もないんです。真っ暗闇の世界の端っこです」なんて言ったところで、あなたはそれをドアを開けずに否定することなどできないはずだ。

「いや、記憶がある。ドアの外は廊下が伸びていて、廊下の先には階段がある。事細かに説明もできるし、そもそも私は外からこの部屋にやってきたのだ」

そう主張したところで、思い出してください。この世界は、5分前に始まった可能性がある。その記憶が作り物でないと、どう証明できましょうか。

これがシュレーディンガーの猫世界。もはやシュレーディンガーさんはほとんど関係ない気もするが、「観測者が観測するまで世界は決定されていない」という主張を最大限まで拡大解釈した結果がこの超理論なのである。

この理論では、これを読んでいるあなたこそが唯一の観測者足りえる。つまり、あなたが観測している世界こそが全てであり、あなたが観測していない部分に関しては全く存在しない可能性が常にある。

ドアの外もそうだ。扉を一枚隔てて、あなたが観測できない状態である内は向こう側の世界は必要ないので存在しない。観測者たるあなたがドアを開けて初めてそこに世界が生成され、存在を許される。

更に進めましょう。

ドアの外の世界が今、存在しない可能性を指摘され、それを否定するためにあなたはドアを開けることにするとします。ドアを開けると、恐らくそこにはあなたが思い描いた通りの世界が広がっているんです。

「なんだ、やっぱり世界は広がってるじゃないか」

ただ、そこに至っても、あなたがドアを開ける1秒前まではそこが真暗で何もなかった可能性は消えないんです。あなたの観測によって世界は確かに生成され、決定された。ただ、観測できない過去に関してはもはや証明のしようはないからです。

もっと言います。

ドアの外にも世界が広がっていることに安堵し、あなたはドアを閉めて部屋の中に戻ります。
「あぁ、良かった」と、一息ついて座るとします。

もう、その時点でたった今消したはずの、「ドアの外が真暗で何もない可能性」は戻ってきています。
「いや、今確認したから。何を言ってんの?」と思ったところで、思い出してください。
この世界は、5分前に始まった可能性がある。ともすれば、30秒前に始まった可能性すらある。

あなたが今、ドアの外を確認して部屋の中に帰ってきた、という記憶と共に生まれた可能性すらあるんです。だからほら、この世界は生まれたばかりで、あなたがついさっき確認したと思っているドアの外は、実はまだ真暗、何もない空間が広がっているんです。

これは、窓の外が見えていたとしても同じことです。あなたが見える範囲では世界が広がっていますが、窓と反対側の方角に関しては世界が広がっていない可能性があります。屋外にいたところで、あなたを中心に半径5キロメートルの周囲だけに世界が存在し、それ以外の部分は何もない可能性があります。

そしてそれら全て、観測者たるあなたが確認する方法は一切ありません。

あなたが観測すれば、観測しているその瞬間だけは世界が決定されるから。

この超理論の肝はここにあります。
私たちには通常、過去、現在、未来の三つがあると考えられています。
このシュレーディンガーの猫世界理論では違います。

私たちには、現在しかありません。

過去は不確かで、未来には決して追いつけないからです。

私たちは明日を生きることができません。
明日は常に一日先にあり、私たちに訪れるのは今日だけだからです。

私たちに確かに存在するのは、今だけです。今しかないんです。
この先もずっと、私たちは連続して訪れる「今」の中だけで生きていくことになります。
過去は過去としてありますが、それが現実であったとも限りません。もちろん利用すべき過去はありますし、今まで培ってきた経験値は信頼に値するとも思います。

ただ言えるのは、やりたいことがあるのであれば「今」やるしかないんです。

やらなくてはならないことは「今」しかできないんです。

「今」どう生きるか決定するのに、「過去」は決して絶対的な指針にはなり得ないんです。

そして、世界も同じ。どこまで広がっていようがいなかろうが関係はありません。
私たちは、今、目の前にある世界で生きていくしかないんです。

沖縄に住んでいれば北海道が本当は存在しない可能性があります。
自分の目で確認できないから。
逆に、北海道に住んでいれば沖縄が存在しない可能性があります。
過去に行ったことがあったところで、それはただの記憶でしかなく、今現在の存在を結論付けるものには匹敵しません。

でも、世界はそんなことは関係なく回り続けます。
結局、出来ることは目の前の世界を生きることだけ。

目の前の世界で、今、やってみよう。
そんな風に私が思うようになったきっかけが、このシュレーディンガーの猫世界です。

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