こんな話を聞いたことがあるだろうか。
この世界は、たったの5分前に始まった可能性がある。
それはまるで本を開くかゲームのスイッチを入れるように5分前に始まった。
小説は往々にして主人公がおぎゃあと生まれた瞬間からは始まらない。大抵が成長し、それなりの背景と設定を伴って、あたかもその主人公の人生を途中から切り取ったかのように話が始まるものだ。
ならばその主人公はいつ生まれたのかというと、作者が思いついたときに生まれたとしか言いようがない。小説を書く人間の頭の中身をのぞいたことがないから予想にはなるが、例えば15歳の主人公であるならば15歳の姿で作者の頭に思い浮かぶ(生まれてくる)はずだ。よもや、作者がまず赤ん坊を想像し、その赤ん坊を頭の中で成長させ、その成長過程で主人公の人格設定をしていくなどということをしているはずもあるまい。
おそらくキャラクターを生み出す際は、「陽気な男の子」「正義感の強い女の子」などと漠然としたイメージありきで考え、そのイメージに肉付けしていくように性格や見た目を決定していくのではなかろうか。言うなれば、15歳の主人公ならば15歳のまま生まれてきて、このような主人公であればこんな両親がいて、こんな幼少期を過ごしているだろう、と芋づる式に設定が出来ていくはずだ。
これを時系列で表すと、
家族構成の形成時系列 ①主人公(子)が生まれる → ②主人公から逆算されて親のイメージが決定(親が生まれる) ③ストーリーに必要であれば祖父母が生まれる
主人公の形成時系列 ①15歳の主人公が生まれる(現在) ②ストーリーが進むつれどう成長していくか未来が決定される(未来) ③確定している現在、未来と辻褄が合うように過去が決定される(過去)
概ねこんなものではないだろうか。
つまり、本やゲームの世界の住人はまず現在があり、未来があって過去がある。
過去を経たから現在があり、未確定の未来に向かっていく我々とは根本から異なる存在と言える。
とはいえ、本当にそうだろうか?
どんなメタ発言をするキャラクターでも、自分の過去は疑わない。
自分がこれを身につけているのはこんなエピソードがあったからだとか。
この傷は、何年前の戦いでついた傷跡だとか。
それはメインストーリーで語られるかもしれないし、語られないかもしれない。
だが、キャラクターの持つバックボーンとして確かにあるはずだ。
そう、過去を持つ我々と同じように。
物語の世界が始まったのがいつか、ということを考えるのはそんなに難しくはない。作者がその主人公や世界観を思いついた瞬間からとも言えるし、作者がその物語を書き始めた時からともいえる。あるいは、あなたが本を開いた瞬間からか。
いずれにせよ、主人公が生まれるより前に物語の世界は存在してないはずだ。
だが本を開いてしまえば、主人公は当然、両親から生まれたように振舞うし、食べることを初めて描写されたとて昔からの好物や嫌いな物があり、備わっている特技もあれば訓練でつけた技能があることもある。
存在しない過去をあたかも存在するかのように振舞うのだ。
これを、今生きている自分自身に置き換えることが、実は出来てしまう。
あなたは本当に年齢の通りの年数を生きているのか、いますぐ証明できるだろうか?
3歳の時の記憶がある。写真もある。
小学生の時についた注射跡がまだ残っている。
幼い頃から使っているくたびれたぬいぐるみをまだ持っている。
記憶は確かに私たちの中にある。記憶に伴う物的証拠もあるだろう。
私たちの持つ記憶が全て、過去に実際に起こったことだと証明する術はあるだろうか?
もっと言おう。
その記憶が、ただのキャラクター設定として持たされた物ではない証拠はあるだろうか?
物的証拠があるではないか、と反論したとしよう。
例えば、地層だ。化石だ。分析すればそれが何千年前のものか調べられるだろう。
あるいは化石燃料。あれば何万年もかけないと作れないものだろう。
世界が、何万年も前からあった証拠だ。何万年も前からある世界にいるのに、私たちの過去がないわけがない。
「いや、この世界がそういう風に作られただけだ」
この世界の創造主が、あたかも世界が過去何万年も存在していたかのように見せかけ、それを分析出来るような仕組みさえ作ったのだ。
そう言われて、誰が反論できるだろうか。
いや、反論はできるかもしれない。だがその可能性を、何人も「0」には出来ない。
そもそも、あなたは化石燃料が出来る仕組みを知っているだろうか?
それが何年前の物なのか分析することは?
分析するとして、その機械の仕組みや構造は知っているだろうか?
おそらく大多数の人が否と答える。自分の過去の存在すら不確定なのに、他人が過去に培ってきただろう知識や伝聞情報をどうして信じられるだろうか。
思慮深い人であればすでにお分かりいただけただろう。
過去が本当に存在した、という証明は出来ないのだ。
何故ならば我々は「今」に存在しながら「過去」を直接観測することができない。「過去」は記憶、記録によってのみ確認できるが、その逆はない。「過去」を観測しながら記憶、記録が本当に正しいと確認できない以上、記憶、記録が100%真実であると証明することはできない。つまり、「過去」という存在は真実か否か断言することのできない記憶、記録という曖昧なものに依存しているのだ。
類似した考え方として、この世界が全てバーチャル世界で、私たちは夢を見せられている、というものがある。本当の現実では宇宙人によって脳だけをカプセルの中に入れられて生かされているだとか、超未来文明の機械によって人類がもっとも繁栄していた時代の夢を体験させられているだとか、諸説ある。
これらに共通して言えるのが、決してそれを確認、証明することができないということだ。
真実とも言えないし、虚実であるとも断言できない。ただ、その可能性だけは確かに存在する。
ただ言えるのは、世界が五分前に始まっていようと、本当の現実が実は別にあって、ここが仮想空間であるにせよ、私たちは「今」を生きるしかないということだけだ。
何故私が、世界が5分前に始まった説を訴えかけたのかという答えも実はここにある。
辛い過去もあるだろう。忘れたい過去も、不安な未来もあるだろう。
だが、自分の過ちや失敗で思い悩んだ時は思い出して欲しい。
この世界は5分前に始まった可能性があるのだ。
その失敗は、本当に自分がしたことなのだろうか。
設定上そうなっているだけの可能性はないだろうか。
その可能性を考えると、少しだけ、ほんの少しだけ心が軽くならないだろうか。
ただまぁ、設定上そうなっている以上はその失敗を背負って生きなければならないのは確かだが、
だから、軽くなった心で冷静に考えてほしいのだ。
今、やるべきことは何か。やらなくてはならないことは何か。
過去はどんなに思い悩んでも変わることはない。だが、所詮過去は過去だ。
過去の自分は過去の自分、決して今の自分ではない。
無責任に問題を放りなげる理由としては弱すぎるが、一度の失敗に思い悩んで後ろめたさやマイナスな思考で、今本当にやるべきことを見失うべきではないのだ。
世界が5分前に始まった説は、机上の空論と妄言の狭間にいるような理論だが、こういう使い方が一応あるという話。
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